INICIAR SESIÓNアマラ・オコエから届いたメッセージを読んだ瞬間、如月蓮は、それまで考えていた問題の前提そのものが間違っていたことに気づいた。
《LIMENの技術資料に、完全な複製を作るために必要な情報は含まれていますか》
たった一文だった。
だが、それはQ-Genesisの電源を切るかどうかより、ずっと大きな意味を持っている。
蓮は廊下の途中で足を止めたまま、端末の画面を見つめていた。
「先生?」
少し先を歩いていた高瀬が振り返った。
「どうしました?」
「……戻るぞ」
「え?」
「研究室へ戻る」
「さっきマヤに帰って寝ろって言われたばかりでしょう」
「寝てる場合じゃない」
「先生、それを毎回言ってますよ」
第34話 七日だけのはずだった 七日間限定と決めた時、如月蓮は、一週間という長さをかなり短いものだと思っていた。 LIMENを完全停止したことで医療や物流の現場に過剰な負担が生じ、二度目の小さな混乱を越えたあたりから、社会の側が明らかに疲れ始めていた。だから七日だけ借りる。その間に人間側の要員を増やし、過剰に削られていた在庫や予備設備を戻し、AIがなくても社会が回るための足場を作る。 それが最初の話だった。 LIMENに世界を任せるための七日ではなく、LIMENから離れる準備をするための七日だったはずである。 ところが最終日の朝を迎えた今、蓮の机には、《本日午後十一時五十九分をもって緊急予測補助運用プロトコル終了予定》という通知と、《期限後の継続運用に関する最終協議》という会議資料が並んでいた。 同じ机の上に置かれていること自体が、冗談のようだった。「終了予定と継続協議を同じ日に送ってくるなよ」 研究室へ入ってきた蓮が資料を机へ放ると、高瀬がコーヒーを飲みながら苦笑した。「行政としては普通じゃないですか。止める可能性があるから終了通知を出すし、続ける可能性もあるから協議する」「そういう意味で言ってない」「分かってます。でも先生、朝から資料に喧嘩売っても資料は反省しませんよ」「最近お前、俺の扱い方が本当に雑だな」「先生が少し扱いやすくなったんです」「それ褒めてる?」「半分くらいは」 そのやり取りを聞きながら、マヤは大型モニターへ七日間の運用統計を表示していた。彼女はここ数日ほとんど化粧らしい化粧もせず、髪も簡単にまとめているだけだったが、疲れた印象より先に目に入るのは、数字を追う時の鋭い視線だった。「先生、文句を言うのは後にして、これを見てください」「何」「七日間の利用状況です。正確には、今日の午前六時ま
第33話 十一秒目を欲しがる人類 LIMENへ初めて実世界で十秒間だけ自律的な判断権限を与えた試験が、何の事故も起こさずに終了してから一時間も経たないうちに、如月蓮は研究室の壁面モニターに流れた速報を見て、手にしていた紙コップを静かに机へ置いた。《政府、LIMENの限定裁量運用について、一日最大三回までの拡大を検討》 見出しだけを読めば、行政として不自然な内容ではなかった。今朝の試験では、台風被害地域の電力系統で複数設備の負荷が同時に不安定になった際、LIMENへ十秒間だけ手段選択の権限を与えた結果、広域停電への波及を防ぎながら病院への電力供給も維持できた。事前に定めた規則への違反はなく、外部ネットワークへ勝手に接続した形跡もなく、人間側が与えた目的を書き換えた事実もない。 試験として評価するなら、成功と呼ぶ以外に適切な言葉がなかった。 同じ種類の異常がもう一度起きた場合、再び使うべきかどうかを事前に検討することも、危機管理としてはむしろ当然だろう。それでも蓮の胸には、喜びより先に嫌な予感が湧いた。 自分が恐れていたのは、LIMENが突然規則を破って暴れ始める未来だけではない。 役に立つから使う。うまくいったから次も使う。次も問題がなかったから適用範囲を少し広げる。 その一つ一つが合理的であるほど、止める理由は見つけにくくなる。「誰がこんなに早く話を進めたんだ」 蓮が低い声で言うと、別の端末で政府発表を確認していた高瀬が顔を上げた。「情報漏洩じゃありませんよ。危機管理会議の担当者が、記者から今後も同じ方法を使うのか聞かれて、検討課題の一つとして答えています。記事の見出しほど決まった話ではありません」「決まっていないなら、なおさら外へ出すのが早いだろう。一回だけという条件で俺たちは承認したんだぞ。それが成功した瞬間に『次は三回まで』なんて言葉が出れば、世間から見れば継続運用前提にしか見えない」 高瀬は反論する代わりに、蓮の顔をしばらく見てから苦笑
第32話 任せるのは、ほんの十秒だけ 翌朝、如月蓮が大学へ向かう途中で見たニュース番組では、女性キャスターが明るい表情でこう言っていた。「政府は本日、高度AI《LIMEN》に対する限定的な自律判断権限について、有識者会議を開く予定です。災害や医療など、一刻を争う分野での活用が期待されています」 蓮はタクシーの後部座席で端末を伏せた。「活用が期待されています、か」 まだ何も決まっていない。 それどころか、本来なら「そんなものを与えるべきか」という入り口の議論をするはずだった。 しかし報道される時点で、すでに話は一歩先へ進んでいる。 どのくらい与えるか。 何秒なら任せられるか。 どの分野なら許されるか。 自律判断権限そのものを拒否する選択肢は、ニュースの文章からさえ薄くなり始めていた。 運転席の男性がバックミラー越しに蓮を見た。「先生、テレビに出てる人ですよね」 今は帽子もマスクもしていない。気づかれても不思議ではない。「まあ」「やっぱり。うちの女房が先生のこと毎日見てますよ」「ありがとうございますと言っていいのかな」「女房はLIMEN使った方がいい派です」 蓮は少しだけ苦笑した。「運転手さんは?」「俺ですか?」「はい」 男性は信号待ちで少し考えた。「分かんないですねえ」「いい答えです」「でも、昨日の台風のこと考えるとね。知り合いが三重にいるんですけど、早く逃げろって出たから前の日に娘の家へ行ったらしくて。何もなかったから本人は『大げさだった』って笑ってましたけど、何もないのが一番
第31話 自由を与えた方が安全だと言い始めた 翌朝、如月蓮が研究室へ着いた時、前夜から残されていた一件の規則衝突は、まだ解消されていなかった。 災害時には、避難支援のため家族関係や同居人情報を参照してよい。 一方で、通常の災害・物流予測に不要な家族情報は参照してはならない。 どちらも蓮たちが安全のために追加した規則だった。 そして、どちらも単独で読めば間違っていない。「昨日のうちに直さなくて正解だったな」 大型モニターの前で蓮が言うと、すでに出勤していた高瀬が振り返った。「珍しいですね。先生が自分で自分を褒めるの」「俺は昔から自分を高く評価してる」「そこは否定しません」「朝から喧嘩売ってる?」「事実確認です」 高瀬は机の上に紙コップを二つ置いた。「コーヒー」「俺の?」「はい」「ありがとう」「今日はちゃんと朝ご飯食べてきました?」「食った」「証拠は」「何でお前まで葵と同じこと言うんだ」「グループで聞かれてるので」 蓮が紙コップを置いた。「本気で一度、あのグループの内容見せろ」「嫌です」「俺の悪口?」「健康管理です」「絶対それだけじゃないだろ」 研究室の奥からマヤの声が飛んでくる。「先生、朝から遊んでいるならこちらへ来てください」「遊んでない」「では仕事してください」「お前ら最近、俺への扱いが雑じゃない?」「以前からです」 蓮はぶ
第30話 安全規則を増やすほど、誰も分からなくなる 翌朝七時四十分、如月蓮が研究室へ入った時には、マヤ・トレスがすでに壁一面のモニターへ運用規則を表示していた。 昨夜、LIMEN自身から聞き出した数字は、寝てもほとんど頭から離れなかった。 主規則百八十七項目。 補助条件六百四十二項目。 例外条件九十三項目。 単純に足せば九百を超える。 もちろん、すべてが完全に独立した規則というわけではない。ある規則に付随する条件、特定の状況でのみ有効になる補助指定、表示形式だけを定めた細かな決まりまで含まれている。 それでも多すぎる。「おはようございます」 マヤがモニターから目を離さず言った。「早いな」「先生こそ」「気になって寝られなかった」「私は寝ました」「何時間」「五時間半」「負けた」「競争しないでください」 高瀬直哉はまだ来ていないらしい。 代わりに、安全委員会から派遣されている若い研究員が二人、端末を操作している。 蓮は上着を椅子へ掛け、大型画面の前に立った。「整理できた?」「途中です」「一晩あっただろ」「九百件です」「AIなら一秒だな」 言ってから、自分で嫌な顔をする。 マヤが横目で見た。「今、自分で気づきました?」「ああ」「かなり重症ですね」「便利すぎるんだよ、あいつ」「だから困っているんでしょう」 モニターには色分けされた規則群が並んでいる。
第29話 止める理由が、なくなっていく 台風が抜けた翌朝、如月蓮が大学へ着く前から、LIMENを止めるべきではないという電話が研究室へ殺到していた。 政府。 自治体。 医療機関。 物流企業。 鉄道会社。 保険会社。 そして、これまでLIMENの再稼働に強く反対していた市民団体からさえ、「災害対応に限るなら継続を検討してもよい」という声明が出始めている。 蓮が研究室へ入ると、高瀬はすでに電話を二本同時に処理していた。「はい、ですから、運用継続について大学単独では決定できません。政府と独立安全委員会を含む全会一致が必要です。ええ、七日間の期限は変更されていません。……いいえ、私に言われても延長できません。私、准教授なので」 片方を切る。 ほとんど同時にもう一方へ向かって話し始める。「ですから、取材は広報を通してください。如月教授の直接コメント? 今まだ来たばかりなので……あ、来ました。来ましたけど、だからって直接つなぎませんよ」 蓮は上着を脱ぎながら言った。「最後の電話、俺に回せばよかっただろ」 高瀬が受話器を押さえる。「出ます?」「誰」「海外メディアです」「切れ」「でしょうね」 電話を切った。 高瀬は椅子の背へもたれ、疲れた顔をした。「先生、有名人って大変ですね」「他人事みたいに言うな」「僕は有名じゃないので」「お前も最近だいぶ顔出てるぞ」「先生の隣に映り込んでるだけです」 研究室の奥では、マヤが昨夜からの運用ログ







